微睡みの箱庭
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微睡みの箱庭

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一 それぞれの一日

なおとは、人の話を聞く仕事をしていた。

朝、診察室のパソコンを立ち上げ、前回の記録や検査結果を確かめる。最初の患者が入ってくると、一日が始まった。

一日に何十人もの人が訪れた。

よく話す人もいれば、こちらから尋ねなければ、ほとんど話さない人もいた。前回より調子のよい人もいれば、長いあいだ同じことで悩んでいる人もいた。

なおとは話を聞き、必要に応じて検査を行い、薬を調整し、その日の診療をパソコンに記録した。

思うようにいかない診察もあった。

あとになって、別の言葉をかけられなかっただろうかと考えることもあった。

仕事が終われば、ジムで身体を動かしたり、家でギターを弾いたりした。

以前は持ち上げられなかった重さが持ち上がるようになり、弾けなかった曲が弾けるようになる。

けれど、どちらも思うようにいかないことは、まだいくつもあった。

そんな時間が好きだった。

休日には、山や川へ出かけた。

自然の中にいると、仕事のことや日々の忙しさが、少し遠くなった。

長く診察していた人がいた。

その人は、よく話す日もあれば、ほとんど話さない日もあった。

ある日、なおとの説明に納得できず、少し強い口調になった。

「先生はそう言いますけど、そんな簡単なことじゃないんですよ」

なおとは、いったん言葉を止めた。

どう答えればよいのか、すぐには分からなかった。

「そうですね。もう少し聞かせてもらえますか」

その人はしばらく黙っていた。

やがて、少しずつ話し始めた。

診察が終わったあと、なおとは先ほどのやり取りを思い返した。

最初から、もう少し話を聞けばよかったかもしれない。

そう考えながら、次の患者の記録を開いた。

別の日には、診察室に入るなり、最近あった出来事を話し始めた。

「先生、聞いてくださいよ」

いつもより声が弾んでいた。

話の途中で、その人は自分でもおかしくなったのか、笑い出した。

なおとも、つられて笑った。

ある春の日には、庭に咲く花の話をした。

「毎年、同じところに白い花が咲くんですよ」

「何という花ですか」

「それが、知らないんです」

その人は少し照れくさそうに口元を緩めた。

「何年も見てるのに、調べたこともなくて」

「今度、写真を見せてください」

「覚えてたらね」

それから別の話になった。

花のことは、それきりだった。

なおとも、特に気に留めていなかった。

二 微睡み

ある休日、なおとは川辺に座っていた。

浅いところでは水が石に当たり、小さな音を立てていた。少し深いところでは、流れているのか分からないほど静かだった。

風が吹くと、木々の葉が揺れた。

なおとは目を閉じた。

眠っているような、起きているような、曖昧な心地だった。

しばらくすると、川の音が遠くなった。

目を閉じているはずなのに、見覚えのない景色が浮かんできた。

草原があり、その奥には森があった。

森を抜けるように細い川が流れ、遠くには山が見えた。さらに向こうには、海や街のような景色も広がっていた。

なおとは驚いた。

すべてが小さく見えるのに、木々の葉や水の動きまで分かる。

まるで、一つの世界を小さく収めた箱庭のようだった。

木々は風に揺れ、川は流れていた。

草むらの向こうでは、小さな生き物らしい影が動いていた。

しばらく眺めていると、近くで人の声がした。

目を開けると、いつもの川辺だった。

もう一度目を閉じてみたが、今度は何も見えなかった。

数日後、仕事を終えたなおとは、ソファでうとうとしていた。

すると、あの景色がまた現れた。

窓の外は暗くなっていたが、小さな世界には明るい日差しが降り注いでいた。

眠りかけたときにだけ、あの世界が見えるらしい。

けれど、見ようと思って目を閉じても、必ず現れるわけではなかった。

そのとき、草むらに一つの卵があることに気づいた。

卵は小さく揺れ、やがて殻にひびが入った。

中から小さな鼻先がのぞいた。

なおとは、何が生まれるのだろうと思いながら眺めていた。

殻が割れると、一匹の犬が顔を出した。

なおとは目を疑った。

卵から犬が生まれたのだ。

犬は前足を伸ばし、草に触れた。

驚いて足を引っ込める。

しばらくして、もう一度触れた。

立ち上がろうとして転び、少し休んでから、また立ち上がった。

やがて歩けるようになると、草むらをあちこち動き回った。

川辺まで来ると、水面に映った自分の姿を覗き込んだ。

鼻先が水に触れ、慌てて後ずさりした。

なおとは思わず笑った。

犬はそのあとも草の間を歩き、小さな虫を追いかけた。

遊び疲れると、木陰で丸くなった。

小さなお腹が、呼吸に合わせてゆっくり上下していた。

なおとは、その寝顔をしばらく眺めていた。

三 変わりゆく命

それから、なおとは微睡みの中で、ときどきあの世界を見るようになった。

現実では数日しか経っていなくても、箱庭では季節が変わり、何年もの時間が過ぎていることがあった。

あの犬も、見るたびに大きくなっていた。

川辺を走り回るようになったが、水に入ることはまだ苦手らしかった。

ある日、犬は川辺で一匹のかえるに出会った。

犬が近づくと、かえるは水へ跳び込んだ。

犬は驚いて後ずさりした。

しばらくすると、かえるが水面から顔を出した。

犬は少し近づいたが、かえるが動くと、また離れた。

そんなことを何度か繰り返していた。

別の日には、二匹が少し離れて川辺にいた。

犬は草の上に座り、かえるは水際の石に乗っていた。

どちらも、しばらく動かなかった。

ある夜、なおとがソファでうとうとしていると、あの世界が現れた。

犬は木陰で眠っていた。

その輪郭が、ゆっくりと変わり始めた。

耳の形が変わり、体つきが変わっていく。

なおとは、何が起きているのか分からず、目を凝らした。

やがて、そこには一匹の猫がいた。

さっきまで犬だったのに。

猫は目を覚ますと、背伸びをした。

そして、以前の犬と同じように川辺へ向かった。

水際には、あのかえるがいた。

猫が近づくと、かえるは石の陰へ隠れた。

猫は少し離れた場所に座った。

やがて、かえるが顔を出した。

猫は追いかけなかった。

それからも、二匹は何度か同じ川辺で顔を合わせた。

かえるが近づいても、猫がすぐに離れなくなるまでには、しばらく時間がかかった。

猫は木に登ることを覚えた。

最初は低い枝までしか登れなかったが、やがて高いところまで行けるようになった。

木の上からは、川の曲がる先や、遠くの森まで見えた。

けれど、降りるときには何度も足を止めた。

あるとき、猫は高い枝から降りられなくなり、長いあいだ幹にしがみついていた。

ようやく地面に戻ると、その日はもう木に登らなかった。

しばらくして、猫はまた姿を変えた。

今度は蝶だった。

初めて羽を広げたとき、蝶はしばらく動かなかった。

やがて羽ばたくと、体がふわりと浮き上がった。

風に乗り、草原の上を進んだ。

けれど、少し強い風が吹くと、思いがけない方向へ流された。

戻ろうとしても、うまく戻れない。

ようやく花の上に降りると、羽を休めた。

しばらくして、また飛び立った。

何度も風に流されながら、少しずつ飛ぶことに慣れていった。

やがて川を越え、森の上まで飛んでいくようになった。

遠くには海が見えた。

それでも、強い風の日には、相変わらず思うように飛べなかった。

蝶は、ときどき川辺へ戻ってきた。

そこには、あのかえるがいた。

かえるは以前と同じ石の近くにいることが多かった。

蝶は少し離れた花に止まり、しばらく羽を休めた。

かえるが水に入ると、蝶は別の花へ移った。

いつも一緒にいるわけではなかった。

それでも、同じ川辺で過ごす時間が、少しずつ積み重なっていった。

四 失われるもの

ある日、長く診察していた人が亡くなったという知らせが届いた。

なおとは驚き、最近の診察を振り返った。

前回の記録を読み返し、気になったことを考えた。

あのとき、別の聞き方ができなかっただろうか。

もっと確かめておくべきことはなかっただろうか。

考えることはいくつもあった。

次に似たような場面があれば、どうするか。

なおとは、いつものように考えた。

けれど、あの人にもう一度尋ねることはできなかった。

診察室には、次の患者が入ってきた。

その日も、何十人もの人が訪れた。

その日の仕事帰り、なおとはジムに寄った。

重いものを持ち上げている間は、ほかのことを考えずにいられた。

帰宅して夕食を食べると、いつものようにギターを手に取った。

いつもの曲を弾き始めたが、途中で指を止めた。

あの人が診察室で笑っていた日のことを思い出した。

何の話だったか、細かなところまでは覚えていなかった。

ただ、いつもより楽しそうだったことは覚えていた。

しばらくして、なおとはもう一度弦に指を置いた。

少し弾いてから、ギターを置いた。

窓の外は、もう暗くなっていた。

それからしばらく経ったある夜、なおとはソファでうとうとしていた。

箱庭の川辺が見えた。

蝶は、いつもの花の近くを飛んでいた。

けれど、かえるの姿がなかった。

蝶は石の近くに降り、しばらく羽を休めていた。

何日か経ち、再び微睡みの中で川辺が現れた。

かえるは、岸辺の草の上に横たわっていた。

なおとが見ている間、かえるの喉が小さく動いていた。

その動きは、次第に弱くなった。

やがて、動かなくなった。

しばらく経っても、かえるは身じろぎひとつしなかった。

蝶は少し離れた花に止まっていた。

やがて、なおとの微睡みは終わった。

後日、再び箱庭を見たとき、かえるの姿はなかった。

蝶は、以前と同じ川辺にいた。

かえるがよく乗っていた石にも、しばらく止まっていた。

やがて羽を広げ、川の向こうへ飛んでいった。

その後も、ときどき同じ場所へ戻ってきた。

けれど、かえるに会うことはなかった。

五 老いと巡り

箱庭では、季節がいくつも巡っていた。

あの蝶も、年を重ねていた。

以前のように遠くまで飛ぶことは少なくなった。

風の強い日には、花の陰で長く休むことが増えた。

ある日、なおとが微睡みの中で箱庭を見ると、蝶の姿がゆっくりと変わり始めた。

羽が小さくなり、体つきが変わっていく。

やがて、一匹の犬になった。

卵から生まれたときと、同じ犬の姿だった。

けれど、もう若くはなかった。

以前は走っていた川辺を、今ではゆっくり歩いていた。

小さな段差を越えるのにも、時間がかかった。

それでも、川辺へ出かけることは好きなようだった。

ある日、犬が水際で休んでいると、一匹の小さなかめが近づいてきた。

犬は顔を上げた。

若い頃なら、知らない相手が近づくと、すぐに離れていた。

けれど、その日は動かなかった。

かめが近くの草を調べている間、犬はそのまま座っていた。

しばらくすると、かめはゆっくりと草むらの方へ歩いていった。

犬はその後ろ姿を見送ると、また川の方を向いた。

別の日には、かめが川辺の小さな段差を越えられずにいた。

犬はしばらくその様子を見ていた。

それから立ち上がり、かめのそばへ歩いていった。

かめが何度か足をかけ直し、ようやく段差を越えるまで、犬は近くにいた。

かめはそのまま草むらへ入っていった。

犬も、少し休んでから歩き始めた。

そんなふうに、年を取ってからも、新しい出会いがあった。

仕事が終わったある夜、なおとは風呂から上がり、ソファに座っていた。

そのうち、うとうとしていると、あの小さな世界が現れた。

犬は木陰に横たわっていた。

以前は、しばらく休むと起き上がり、また川辺を歩いていた。

けれど、その日は違った。

呼吸に合わせて動いていたお腹が、次第に小さく動くようになった。

やがて、その動きが止まった。

なおとは、しばらく見つめていた。

もう一度、息をするのではないかと思った。

けれど、犬は動かなかった。

木陰には、午後の日差しが差していた。

しばらくして、なおとは微睡みから覚めた。

目を開けると、いつもの部屋だった。

なおとは、少しのあいだソファに座っていた。

それから立ち上がり、夕食の支度を始めた。

数日後の休日、なおとは本を読んでいるうちに、うとうとしていた。

あの小さな世界が、また現れた。

犬が横たわっていた木陰には、もうその姿はなかった。

川辺の草むらに、また一つの卵があった。

やがて殻にひびが入り、今度は中から小さなペンギンが顔を出した。

ペンギンは短い足で立ち上がろうとして、前につんのめった。

何度か繰り返し、ようやく立ち上がると、よちよちと歩き始めた。

川辺まで来ると、水面を覗き込んだ。

しばらく水を眺めていたかと思うと、そのまま飛び込んだ。

小さな体が、水の中を滑るように進んでいった。

なおとは、その姿を眺めていた。

あの犬は、初めて川を見たとき、怖がって近づかなかった。

けれど、この子は違うらしかった。

ペンギンは水から上がると、体を震わせ、また水へ入っていった。

なおとは、思わず笑った。

あの子がいなくなった川辺で、別の命が生まれていた。

この子は、これからどんなふうに生きていくのだろう。

川辺には、以前と同じように草が茂り、水が流れていた。

六 微睡みのあと

ある休日、なおとは川辺に座っていた。

浅瀬を流れる水が、石に当たって小さな音を立てていた。

しばらく眺めているうちに、少し眠くなった。

目を閉じると、あの小さな世界が広がった。

ペンギンは、以前より少し大きくなっていた。

川の中を泳ぎ回り、ときどき岸辺に上がっていた。

少し離れたところでは、あのかめが水際を歩いていた。

かめは川に入ると、いつも岸の近くを泳いでいた。

向こう岸まで行こうとしても、流れの速いところまで来ると、引き返してしまう。

その日も、かめは途中で岸へ戻ってきた。

すると、ペンギンがそばへやってきた。

ペンギンは、かめの鼻先に、ちゅっとくちばしをつけた。

かめは驚いて首を引っ込めた。

しばらくすると、また顔を出した。

ペンギンは嬉しそうに羽を広げた。

そして川へ飛び込むと、少し先で振り返った。

かめは水際でしばらく迷っていた。

やがて、ゆっくりと川へ入った。

ペンギンは先へ進んでは、かめが近づくのを待った。

流れの速いところまで来ると、かめは足を止めた。

ペンギンは、少し離れたところで浮かんでいた。

かめは一度岸の方を振り返った。

それから、もう一度前を向いた。

ゆっくりと足を動かし、流れの中へ進んでいった。

ペンギンも、そのそばを泳いだ。

やがて、二匹は川の反対側へたどり着いた。

かめは岸に上がると、しばらく動かなかった。

そこには、今まで見たことのない草花が咲いていた。

ペンギンも隣に上がってきた。

かめは首を伸ばし、ペンギンのくちばしに鼻先を寄せた。

二匹はしばらく並んで、初めて見る景色を眺めていた。

やがて、かめは草むらの中へ歩いていった。

ペンギンは、その後ろ姿を見送っていた。

それから、なおとの方へ向き直った。

「ねえ、きみはだあれ?」

なおとは驚いた。

箱庭の生き物に話しかけられたのは、初めてだった。

何と答えればよいのか分からず、黙っていた。

ペンギンは首をかしげた。

「ねえ、きこえてる?」

なおとは答えなかった。

「なまえは?」

少し迷ってから、口を開いた。

「……なおとだよ」

「なおと」

ペンギンは、確かめるように繰り返した。

「なおとは、どこにいるの?」

「……遠いところかな」

「とおいの?」

「うん。ここからは見えないところだよ」

「ふうん」

ペンギンは少し考えた。

「なおとも、おおきくなるの?」

「もう大人だけどね」

「じゃあ、ずっとおんなじ?」

「いや、そうでもないよ」

「かわったの?」

「うん。ずいぶん変わったと思う」

「どんなふうに?」

「……そうだね。どんなふうだろう」

「えー、わかんないの?」

「はは、そうだね」

「へんなの」

ペンギンはそう言って、水へ飛び込んでいった。

なおとは、その姿を見送っていた。

どんなふうに変わったのだろう。

そう考えると、あの犬のことが浮かんだ。

初めは川を怖がっていたのに、いつしか蝶になって、空を飛んでいた。

なおとも、以前は知らなかった景色を、いくつも見るようになった。

生まれ育った街を離れ、いくつもの土地で暮らしてきた。

働く場所が変わり、日々顔を合わせる人も変わった。

初めてのことに戸惑い、少しずつできるようになったこともある。

思いがけない出会いがあり、誰かと笑い合った日もあった。

少しずつ親しくなった人がいた。

いつの間にか、会わなくなった人もいた。

もう一度会いたいと思っても、会えない人もいた。

長く診察していたあの人のことも思い出した。

診察室で、楽しそうに笑っていた日のこと。

なおとは、箱庭の川辺へ目を向けた。

あの犬が初めて草に触れた日のことを思い出した。

かえると過ごした時間も、年を取ってから出会ったかめとの時間もあった。

そして今、同じ川辺を、ペンギンが泳いでいる。

なおとは、その姿を眺めていた。

しばらくすると、ペンギンが水から上がってきた。

「ねえ、なおと」

「なに?」

「ぼく、つぎはなにになるんだろう」

ペンギンは、自分の小さな羽を眺めた。

それから、なおとを見た。

「なおとは、なにになりたい?」

なおとは、すぐには答えられなかった。

できることなら、誰かともっと分かり合える人になりたい。

大切な人を、ちゃんと大切にできる人になりたい。

けれど、そう願いながら、うまくできなかったこともあった。

診察室では、何度話を聞いても、思うようにいかないことがあった。

あとになって、もっと違う言葉をかけられなかっただろうかと考えた。

仕事の外でも、そうだった。

大切にしたかった人を、傷つけてしまったことがある。

自分もまた傷ついた。

あのとき、もっと優しくできなかっただろうか。

もっと勇気を出せなかっただろうか。

自分を守るために、言わなかったこともある。

本当は、もっと話がしたかった。

分かってほしかった。

分かりたかった。

なおとは、いつの間にか、これからの自分ではなく、過ぎた日のことばかり考えていた。

思い出すと、今でも胸が苦しくなる。

もう一度、あの頃に戻れたら。

今の自分なら、違う選び方ができるかもしれない。

けれど、どれだけ泣きわめいても、あの頃を生き直すことはできない。

なおとは、しばらく黙っていた。

川を渡った先では、かめが草の間を歩いていた。

さっきまで渡れなかった川を越えて、今はそこにいる。

そのそばには、ペンギンがいた。

なおとは、これまで自分が誰かに支えられたことを思い出した。

一人では踏み出せなかったことが、誰かとならできたこともあった。

これからも、知らない場所へ行き、新しい人と出会うことがあるのだろう。

あのかめも、これからまた、知らなかった景色を見るのだろう。

過ぎた時間を変えることはできない。

けれど、これからの自分まで、決まっているわけではなかった。

ペンギンは、なおとの返事を待っていた。

「……まだ、わからないな」

「そっか」

ペンギンは水辺へ戻っていった。

やがて、現実の川の音が近くなった。

なおとは目を開けた。

目の前には、いつもの川が流れていた。

しばらく座っていたが、やがて立ち上がり、川沿いの道を歩き始めた。

道端に、小さな白い花が咲いていた。

なおとは足を止めた。

長く診察していたあの人も、庭に白い花が咲くと話していた。

毎年、同じところに咲くという花。

名前は知らないと言っていた。

写真を見せてもらうこともなかった。

目の前の花と同じ種類なのか、もう確かめることはできない。

なおとは、しばらく花を眺めていた。

あの人にも、なおとの知らない時間があった。

それでも、診察室で言葉を交わした時間は、確かにあった。

失ったものが、別の何かで埋まるとは限らない。

それは、生きてきた時間に、かけがえのないものがいくつもあったからなのかもしれない。

だからこそ、今ある時間を、もっと大切にしたい。

目の前の人に、もっと心を向けられる自分でありたい。

受け入れられる日が来るのかは分からない。

それでも、本当は、そのすべてを愛したい。

なおとは、もう一度花を見た。

それから、ゆっくりと歩き始めた。

翌朝、なおとはいつものように診察室のパソコンを立ち上げた。

最初の患者が入ってきた。

「おはようございます」

「おはようございます」

なおとは、目の前の人の話に耳を傾けた。

今日もまた、一日が始まっていた。